客室のご案内
昭和20年代の雰囲気を醸し出す、古民家風の宿です。焼き杉板の壁、土間、裸電球、長崎出島の石垣など随所にこだわりの工夫が施されています。
温泉のご紹介
湯治場として約700年の歴史を持つ下田温泉。源泉かけ流しの天然温泉です。露天風呂と、部屋風呂には五右衛門風呂もご用意いたしました。
お食事のご案内
東シナ海に面する天草灘で獲れたての魚を使った海鮮三昧。旬の地魚、天草牛のステーキなど、女将が心を込めてご提供いたします。
ビデオでご紹介
熊本・天草下田温泉に15年ぶりに新規開業した「湯の郷くれよん」その魅力をビデオでたっぷりご紹介します。
「天草は遠いんですね」
関東の茨城県から来られたお客様の感想だ。
茨城から羽田まで電車、そして飛行機で熊本空港へ。その後、3時間以上もバスにゆられる。
ジェット飛行機も、そして今ほど快適なバスの旅など無かった時代。
北原白秋、西条八十、両氏と並び、日本三大詩人のひとり茨城県北茨城市磯原町出身の野口雨情氏(1882〜1945年)=写真(北茨城市提供)=は約80年前の1934年(昭和9年)9月、九州日日新聞の依嘱で熊本に来訪。翌年行われる「新興熊本博覧会」で歌われる新民謡を詩作するため、阿蘇など県下各地を巡り、同年10月15日から18日の4日間の日程で、天草各地を詩作行脚した。同新聞のインタビュー記事「多年憧れの天草へ」(1934年=昭和9年10月17日付)で雨情氏は次のように語っている。(*1)
「郷土民謡を作る為め熊本県下各地を巡遊中の野口雨情氏は十五日午後一時三角港発、天草嶋の風光を賞しつつ、船中で「向ふ眺むりゃ雲仙嶽の遠く裾野は海に入る」の句を作り同三時四十分本渡着、苓州館に投宿したが氏は語る。
天草は十年前に一度実地に来たことがある。其の時は天草は南国情緒豊かな処であると聞いて興味を以て出掛けたが、其処には電燈もなく交通も不便で全く期待を裏切られた。ところが、今度来て見ると交通は海に陸に完備し旅館の設備もよくまさに隔世の感がある。天草の風光は宛然絵巻物を見るが如くであり、此の風光を有する天草がどうして国立公園に編入されなかったかと不思議に思って居る位である。茲二三日ゆっくり見物して詩囊を肥やすつもりである。」
「天草は十年前に一度実地に来たことがある。」と記事中にあるが、野口氏はこれまで1925年(大正14年)8月と1934年(昭和9年)10月、そして1941年(昭和16年)6月の三度、天草を訪れたことが分かっている。(*1-1)
また、同紙10月20日の記事に野口氏は「謡になった天草」で次のように語っている。
「本社依嘱による郷土民謡作成の為熊本県下各地行脚中の詩人野口雨情氏は十五日来嶋、十八日やっと天草嶋の民謡行脚を終え牛深町阿和屋旅館に旅装を解いた、氏は語る。
天草は嶋全体が詩であり絵である。それに地名がすでに詩的で自から詩情をそそるやうだ。芭蕉・蕪村などの各俳人が、松嶋の景には失望したというが、龍ヶ岳から天草松嶋一体の風光が早く知られてゐたなら、彼等を失望させずに済んだのであらう。而し天草の偉大さを知るのにはさうした女性味の風光よりも、男性的な西海岸即ち山陽の詩で有名な天草灘に面した所で、私はここは天下比類なき絶景の地であると思ふ。国立公園に編入されなかったのが、不思議である。しかるにかうした詩と絵に恵まれた天草嶋が観光客の便利を計るためか知れないが、各所に大々的に看板広告を見受けたが、これは詩的価値を台なしにするもので大いに慎むべきものである。新作天草民謡
富岡にて
松に松風昔も今も城に変わりはありやせぬ
雲がみえます天草灘にあれは呉ぢゃない越ぢゃない
下津深江附近
ここは小田床逢萊嶋の松は吹かれる潮風に
玄武崎から深江の港風に帆かけて舟が来る
龍ヶ岳
高戸樋嶋渚の砂も天にのぼれば星となる
阿蘇や雲仙霧島までも龍ヶ岳から一眺め(*1-1)
なほ同氏は十九日熊本経由で帰京の予定である。 」
その後、1941年(昭和16年)再び天草を訪れ、6月20日に「下田温泉歌謡八章」と題し、今に知られる「下田温泉小唄」を発表した。(*2)
1925年(大正14年)8月に初めて天草嶋に来島以来、天草へ三度、足を運び、詩作をした野口雨情氏。
彼だけでなく、数多くの文化人や、芸術家たちを引きつけた天草・下田の魅力とは・・・
天草への旅物語の始まりです。
「天草温泉小唄」(下田温泉小唄・作詩=野口雨情・作曲=古関裕而)
湯治するなら下田のお湯で 今に変わらぬ白鷺湯
瀬戸に有田に陶器の元は 掘って積み出す茶碗石
波の花咲く妙見浦に ぬれて啼くのは磯千鳥
土井の老松伐らせてならぬ 伐れば下田の湯もかれる
三州岳から朝立つ風は 下田繁昌と吹き下ろす
鮎は若鮎湯の香を慕ひ 河鹿鈴ふる瀬をのぼる
下田川筋蛍の頃は 通ふ姿も隠されぬ
今宵白鷺温泉泊り 旅の労れを湯で流す
赤い夕日は天草灘に 沖の鵜の鳥ャいつ帰る
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<参考文献・関連記事>
◎「野口雨情」- Wikipedia
◎(*1)『野口雨情詩と民謡の旅』東道人著 踏青社刊
「九州日日新聞1934年(昭和9年)10月17日、20日付夕刊=熊本県立図書館蔵。同館製作のマイクロフィィルムに収録してあるが、熊本日日新聞社製作の同紙マイクロフィルム(国会図書館のも同じ)は新聞の版が違い、10月17日、20日付の同記事は収録されていない。
◎(*1-1)「九州日日新聞1934年(昭和9年)10月17日付夕刊の記事中に「天草は十年前に一度実地に来たことがある。」とあり、二度目の来島だったことが分かる。昭和9年の10年前は大正14年である。これを裏付ける資料として、野口溪山(野口仙太郎)氏が雨情に1925年(大正14年)8月10日に書いてもらった短冊がある。「山で雉子啼く雉子ャ天草の山でほろゝとほろ叩く」の裏書きに「大正拾四年八月十日朝野口雨情先生よりいただく 野口溪山」とある。(野口久仁子さん所蔵=天草市本渡)これにより野口雨情は1925年(大正14年)に初めて、天草に来島したことが分かる。
また、龍ヶ岳を詠った「阿蘇や雲仙霧島までも龍ヶ岳から一眺め」は「九州日日新聞」1934年(昭和9年)10月20日付夕刊(熊本県立図書館製作マイクロフィィルムに収録 )に、「新作天草民謡」として発表しているので、制作年は昭和9年10月である。上天草市や熊本県のサイト等で「昭和4年」作としているが、これには根拠が全く無く、誤りである。
同様に、牛深ライオンズクラブが1984年、遠見山に建立した歌碑「肥後の天草牛深港岸に千艘の船泊る」に「1929年(昭和4年)早春の3月詩人野口雨情は、天草に来遊牛深に泊する」とあるが、雨情研究家の東道人氏は1995年に出版した『野口雨情詩と民謡の旅』(踏青社刊)の中で「この雨情の往訪時期にいささか疑義がある」(p316)と早くから誤りを指摘されていた。天草テレビの番組「野口雨情が愛した天草」の取材で、吉川茂文氏(建立当時、牛深市広報課在籍)は、「昭和4年3月」について「資料等全く根拠はなく、関係者が推測で書いたもの」と証言している。「九州日日新聞」昭和9年10月20日付夕刊の記事中「野口雨情氏は十五日来嶋、十八日やっと天草嶋の民謡行脚を終え牛深町阿和屋旅館に旅装を解いた」とあり、また雨情の詩作ノート「旅の風草」の「牛深」詩題の列叙や行程から考察すれば、この作品も、憶測で歌碑に記した「昭和4年3月」ではなく、東道人氏が同著書でご指摘された通り「昭和9年10月18日以後まもないころに詩作されたもの」とすべきである。
◎(*2)「下田温泉小唄」は野口雨情が「下田温泉歌謡八章」を昭和16年6月20日に完成、発表した。直筆書には八節の詩の後に「昭和十六年六月二十日 下田温泉歌謡八章 野口雨情并書」と書かれている。定本『野口雨情 第五巻 地方民謡』(未来社刊)にある「天草温泉小唄」(p400)には9節あり、曲順が違う。
その後、昭和30年ころに、「君の名は」や「鐘の鳴る丘」「栄冠は君に輝く」などを作曲して数多くのヒット曲で知られている古関裕而氏が付曲した。
(天草テレビ制作番組「赤い夕日は天草灘に」参照。詳しく>>>)
◎「古関裕而」- Wikipedia
(文責・金子寛昭=天草テレビ・代表=2016.7.20改訂*写真は、断りがない場合は、天草テレビ番組の中から転載しています。)
「湯の郷 くれよん」は東シナ海に面した積翠(せきすい)広がる海原に、大小浮かぶ島嶼(とうしょ)の一つ、天草下島の最西に位置するところ、天草・下田の三州岳の麓(ふもと)にあります。江戸時代後期(文政元年八月=1818年)に頼山陽(らいさんよう)が漢詩「雲耶山耶呉耶越・・・(雲か山か呉か越か・・=あれに見えるは雲であろうか。山であろうか。それともシナ大陸の呉の地か越の地か・・)と詠んだ「泊天草洋」で有名な天草灘に面したところです。
天草洋に泊す 頼山陽
泊天草洋 天草洋に泊る
雲耶山耶呉耶越 雲か山か呉か越か
水天髣髴青一髪 水天髣髴 青一髪
万里泊舟天草洋 万里舟を泊す 天草の洋
煙横篷窓日漸没 煙は篷窓に横たわって 日漸く没す
瞥見大魚波間跳 瞥見す 大魚の波間に跳るを
太白当船明似月 太白 船に当たって 明るきこと月に似たり
ここは天下比類なき絶景の地にふさわしい海の幸、山の幸の宝庫です。
旅館の食材は、地元の漁師より伊勢エビ、アワビ、ウニ、サザエ、エビ、カニ、魚など、など旬の魚貝類を調達しています。
又、近隣農家から無農薬や低農薬の野菜、果物を作って頂き、それを食材として使用しています。
素晴らしい風景、歴史、天草一番の源泉掛け流し天然温泉の露天風呂、新鮮な食材の宝庫と、癒される古民家風の宿、四季折々に変わる雑木、心癒される空間を造り、おもてなし200%の自信を持ち、地元旅館、商店、飲食店の方々とも協力しあい、天草下田温泉さらには、熊本の活性化に貢献できるよう努力して参ります。
地元の人々に「ここで生まれて良かった。」と思える地域環境となるようにまた、訪れる方々にとっては「又来たい」と思える楽しい思い出の場所を、"くれよん"の色で思い々、描いて頂ければ幸福です。
町を浴衣で大勢のお客様が練り歩く姿を思いながら温泉旅館「湯の郷くれよん」を取り組んで参ります。
皆様の"心のふるさと"となりますように。